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思考法・マインドセット

「他人のせいにする」方が意外としんどい

2025年6月17日

『七つの習慣』という本があるんですが、新卒時代に「必読書」だと言われたので、当時は仕方なく読んだんです。

とはいえ実際のところまあまあ記憶に残っていて、私自身の行動指針の一部になってる気もしますし、気が付いたらなんだかんだ読み返したりもしてるんですよね。でも一番記憶に残ってるのは、本の中で紹介されてた、とあるエピソードだったりします。

奪うことのできない「人間の最後の自由」

ヴィクトール・フランクルさんという、ユダヤ人の精神科医の方が、ナチスの強制収容所の中で感じたことの話です。(この時点でやばい)

ここで彼は、ナチスの兵士たちも決して奪うことのできない自由、後に「人間の最後の自由」と自ら名づける自由を発見する。たしかに収容所の看守たちはフランクルが身を置く環境を支配し、彼の身体をどうにでもできた。しかしフランクル自身は、どのような目にあっても、自分の状況を観察者としてみることができたのだ。彼のアイデンティティは少しも傷ついていなかった。何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができたのだ。自分の身に起こること、すなわち受ける刺激と、それに対する反応との間には、反応を選択する自由もしくは能力があった。

恐ろしい話というか、私自身初めて読んだ時には、ほんとシンプルにやべーやつだと思った記憶があります。

まず大事なのは「依存」からの脱却=「自立」だ

さて、なぜこの本の中でこんなエピソードが紹介されているかというと、この本での最重要メッセージは、「自立せよ」ということだからです。「依存」状態を脱し、「自立」状態を経て、「相互依存」状態に至れというのが、この本を通じた大きなメッセージでした。(※ 個人的には、「相互依存」という和訳は「共依存」みたいな悪い意味に聞こえてしまうので、「相互貢献」とかの方がいいんじゃないかと思ってますが、ここでは本筋じゃないので割愛します)

自立というのは、いわゆる生活的な自立という意味ではなく、心の持ちようとしての自立のことです。私の解釈も含みますが、ここでいう自立とは「自分に起こるすべての事柄について、例外なく自分のせいである部分を認め、改善に努められること」だと思ってます。

逆に、自立していない「依存」状態というのは、「すべてを他者や環境のせいにして、他者が解決してくれるのを待っていること」だと言えるかなと。

依存状態 自立状態
他者や環境のせいにする 自分にできることを考える
他者が解決してくれるのを待つ 自ら改善に努める
自分の感情は他人に左右される 自分の反応は自分で選択する

…というと、「いや、そんな全部のことに自分の責任なんてあるはずないじゃん、自分にはどうしようもないこともあるんだから」という気持ちはわかります。ここで先述のヴィクトール氏の逸話が効いてくるわけです。「人間は、何が起ころうとも、それが自分に与える影響を自分自身の中で選択することができる」のだと、強制収容所で相当ひどい目にあってきたであろうヴィクトール氏に言われてしまったら、まあちょっと返す言葉も引っ込めざるを得ないですよね。(いやそれにしても極端な例を出してきたなとは思いますが)

なぜそんなつらい考え方をしなければいけないのか

とはいえ、「すべてを自分のせいに」なんてのはつらいですよね。なんというかストイックすぎる。これに対しては、個人的には「しなければいけない」とは思ってないです。「した方がいい」くらいかなと。理由は二つで、

  • その方が「『いい人』とみなされ、他人と協力できるから」
  • その方が「自分で人生をコントロールできるから」

1. 「いい人」とみなされ、他人と協力できるから

シンプルな話、他人や環境のせいにしてばかりいる人は周りから良く思われません。「私のこともよくは思ってないんだろうな」と、潜在的に感じてしまうからです。たとえ他人や環境に大きな原因があって、それを追求する必要があったとしても、「自分にも原因があるかもしれない」「自分の反応を変える余地があるかもしれない」とほんの少しでも思えるかどうか。そういうスタンスを取れる人は、周りからも信頼され、頼み事や相談をされることが増え、協力の輪が広がり、できることも増えていく…という正のスパイラルが生まれるはずです。

2. 自分で人生をコントロールできるから

例えばとある不幸があって「あいつのせいだ」とか、他の不幸があって「社会が悪い」みたいな思考を繰り返して、常に怒ったり不機嫌な人がいるとします。これは実質、「自分の気持ちや人生のコントロールを、他人に預けた状態」になってるわけです。他人や社会のせいにすることは簡単ですし、文句や要求を言うのも自由ですが、それで相手が変わってくれるかというと、結局それは相手次第です。というか実際、そんな都合よく変わってくれることはほぼありません。それはまず、シンプルに損です。自分の気持ちを(ほとんどの場合、嫌いな相手によって)振り回され続けるだけになってしまいます。またもっと悪くすると、「相手のここが不満で、ちゃんと要求もしているのに、全然変わってくれない」という振る舞いが、より周囲に対する強い要求を生み、周囲の心が離れていくことによって、さらに変わってくれなくなる、という負のスパイラルが生まれることになります。

すこし逆説的ですが、「自分のせいである部分を認めて、自分が先に変わる」という考え方の方が、自分がコントロールできる分、楽であるということもあれば、それが結果的に他者を変え、自分の人生を自らよくしていくことにつながるんです。本の中でも「人格を磨く」っていう書き方をされてますが、まあそう言っちゃうと意識高いなって思っちゃいますが、「いい人になっていい人生にした方がいいよね」ってくらいに理解してます。

ただし、自分を責めるべきとは言ってない

じゃあ、うっかりすると「常に自分のせいだ」と自分を責め続けるべきなのか、という話になりますが、「責めるべき」とは言っていません。

そもそもまず、ちょっとでいいんです。気持ち的には「他者のせい:自分のせい=9:1」くらいでもいいです。この「ちょっと」が大事なんです。(でも、この考え方に慣れると、そもそも何割どっちのせい…みたいな大小にたいした意味はないと思えるようになります)

また、ここで自分に対して追求するべきなのは、「責任」ではなく「原因」です。つまり、「やってしまったと後悔」するのではなく、「なぜそうなってしまったのかの反省」を適切に行うべき、ということです。

また、「自分ではどうにもできなかったこと」にまで責任を感じたり、原因を探したりするのもよくありません。あくまで「自分はどうできたか」「自分の行動、受け止め方、思考の何が悪かったか」に限定して反省をすべきなのです。

矛盾したことを言うようですが、

  • 「すべてのことについて、自分のせいである部分を認めるべき」だが「全部自分のせいだと思う必要はない」
  • 「自分に原因があることを認め、反省すべき」だが「自分の行為に責任を感じ、自分を責める必要はない」

ということです。

おまけ:「ブルーロック」は自立の物語である(U18代表戦まではね)

「全員FWでサッカーチームを作る」というコンセプトから始まる、『ブルーロック』というサッカー漫画があります。サッカーって普通は、最低でもFW、MF、DF、GKといった役割に分かれますが、この漫画は出だしからして「サッカーは点とらなきゃいけないんだから、全員FWな!」というところからスタートします。

これは作者さんによる「サッカーの役割分担による『依存』状態が発生してるんじゃないの?」という課題提起だと私は受け止めてます。つまり、MFやDF、GKはある意味「自分は点を取らなくていい」と思ってるんじゃないか。「勝てないのはFWが点を取らないせい」みたいになってるんじゃないか!(…と、私が思ってるわけではありません。作者さんが思ってるんじゃないか…という話です)

だとすればこれは典型的な「依存」状態です。ならばいっそ全員「FW」ということにしてしまえば、全員が「勝てないのは自分のせいだ」と例外なく受け止められるようになって、「自分こそが成果をコントロールするんだ」という「全員自立」状態をつくれるんじゃないか…という思想があるんじゃないかと、その背景にはこの「七つの習慣」のような考え方があるんじゃないかと、個人的には想像します。

というかわりと確信してるんですが、そう確信するシーン二つほどあります。

人は、他人を変えることはできない
だからいつだって、自分が変わるしかない
思い通りにいかない世界を変える方法は、きっとそれ以外には存在しない

【ブルーロック 第62話より】

まさに上述の正のスパイラルと負のスパイラルの話です。主人公と組んだとあるプレイヤーが超自己中で、全然プレーを合わせてくれないんですよね。「合わせろ」とひたすら要求するんですが逆に対立は深まるばかりで、試合展開も厳しくなっていくんですが、最後の最後に主人公が↑のセリフとともに判断を変えて、自分のやり方を変える形で、相手との連動を目指すんです。

結果的に、その自己中プレイヤーも「自分を変える」ことで、チームは相互連動を生み出し始めます。ブルーロックの面白いところは、全員がそんな「自己中なFW」であるがゆえに、「隙あらば自分がゴールするんだ、そのために他人を利用してやる」くらいの感じで全員が動いてることなんですよね。少々過激な形ではありますが、「相互依存(相互貢献)」の理想的な形の一つなんだろうなと思います。

弱FW「確かに俺がボール取られたけど、全責任なすりつけるのは違うだろ」
強強MF「責任転嫁じゃない、これはチャンスを作っている人間からの主張だ」

【ブルーロック 第121話より】

明確に「責任」という単語が出てくるのは珍しいと記憶してるんですが、こんなやりとりもありました。この漫画においては超例外的に、MFが出てくる話なんですが、その人が超強強MFで、一人でチャンスメイクしまくってFWにボール供給しまくるんです。でも、肝心のFWがイマイチで、ゴールにつながらない。

こんな時、普通の人格なら「決めろよお前!」ってなりそうなもんですし、MFくんもそのように言ってるんですが、ただし明確に「これは責任転嫁じゃない」(すなわち、自分にも責任がある)と言ってるんです。小さいコマのやり取りで、ちょっとした会話なんですが、結構ここに作者の信念を感じるんですよね。

つまりMFくんの言葉をめっちゃ丁寧に言い換えれば、「自分に責任がないとは思ってない、ただしチャンスメイクという形である程度責任を果たしてるんだから、お前もゴールを決めるという責任を果たせと主張してもいいだろう」くらいの感じ?責任を押し付けるという「依存」ではなく、「相互依存(相互貢献)」の域に近い発言であるかなって思います。ちなみにこのやりとりの前にこのMFくんは自分で1点決めてたりするんで、まあ実際は充分責任を果たしたうえでの発言とも言えますね。それでも「責任転嫁じゃない」とわざわざ言わせるところに、作者の意思を感じます。

まとめ

というわけで、自分の人生を生きるために、「自立=自分のせいである部分を認める」という考え方は有益だよ、という話でした。

ただ、容易に自分を責めすぎる思考に変わってしまうので、適切に「責任」と「原因」を分けるスキルも同時に必要だということです。

また別の話を放り込みますが、英語での「責任」という単語も考えてみると面白いです。一般的には「責任」は「responsibility」という単語で表されますが、つまりは「response(反応)+ability(能力)」的な意味があるんですよね。一方で、「責める」という言葉を英訳すると「blame」と言われることが多く、「非難する」ような意味合いも含まれます。

ここで重視したいのは当然前者です。「自立=自分のせいである部分をみとめる」というのは、「自分のresponsibilityを認める=反応すべきだということを認める」ことであって、「自分をblameする=自分を責める」ことではないということですね。

日本人は平均的にみると謙虚で自己批判精神が強いと言われがちですが、それがこの辺の言語観にも表れてるのかなと思います。ただ、一方でそれが過剰に表れてしまう(自殺数や過労死が多い)という傾向もあります。欧米の英語的考え方も部分的にうまく取り入れて「適切な」謙虚さと自己批判精神を持ち合わせることで、よりよい人生を選択できるんじゃないかなと、思ったりするところです。

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